大竹市の概要
大竹市は、広島県の南西部に位置し、山口県との県境にあります。そのため隣接する山口県岩国市、和木町とのつながりが強く、一体の都市圏を形成しています。市域の大部分を標高400〜700mの山地が占めており、その昔、遠管郷(おかのさと)と呼ばれていました。当時の都と九州・大宰府を結ぶ古代山陽道の安芸の国の終駅として、また、交通の要所として栄えていました。江戸時代から明治時代にかけて、小瀬川の良水が育む和紙産業が盛んになり、1950年代には紙パルプ・化学繊維・石油化学等の大企業を誘致したことにより、瀬戸内海の沿岸にある瀬戸内地域有数の臨海工業地域に発展しました。一方、山間部では観光資源に恵まれ、三倉岳やその中腹にある弥栄峡などを訪れる人で賑わっています。
大竹のあゆみ
この地に人が住み始めたのは、約3万年前の旧石器時代といわれています。その頃、草原の盆地であり、多くの動物の楽園地だった瀬戸内海では、安山岩を利用して石器を作り、狩が盛んに行われていたようです。また、大竹市内では、多数の古墳が広範囲にわたって確認されており、千代田町中出勝負峠(なかいでしょうぶだお)古墳群・塚迫古墳群・蔵迫古墳群・大朝町登古墳・東山古墳、加計町津波丸山古墳などが残っています。これらの古墳から狭い地域のみならず、広島湾西部地域にも影響力をもった有力者が眠っていたと考えられています。
時は戦乱の1555年、毛利元就が厳島合戦を制し、中国地方の大半を支配し始めます。その頃、大竹に和紙の製法が伝えられ、生産されるようになり、1615年には伊予の国(愛媛県)から製紙の技法が伝えられたといわれています。県境を流れる小瀬川沿いの村は山に近いため、原料の楮(こうぞ)やきれいな水に恵まれており、和紙を作る家が多くありました。
中世になると厳島社領や毛利氏の治下となり、関が原の合戦以後は、この地に福島氏が入り、亀居城を築きました。その後、元和5年(1619年)、福島氏の改易によって浅野氏がこれに変わり、その家老である上田氏の知行所にあてられました。幕末の動乱期には、長州征伐の戦禍を受け、沿岸部のほとんどの民家が焼失しました。
明治時代の大竹は、和紙生産、イワシ網漁業を中核として発展していきました。明治5年(1872年)和紙の専売制が廃止され、販売などが自由になると、紙質の低下が起こり、販路は一時縮小されました。しかし、明治43年(1910年)には、大竹町製紙組合が設立されたこともあり、技術の改良、品質の改善、生産能率の向上などが計られ、大竹の手漉き和紙は、全国的にその名声を高めることとなりました。
昭和に入り、第二次世界大戦が始まると、大竹には中海兵団・潜水学校が設けられ、海軍の重要な基地としての役割を果たしました。戦後の昭和29年(1954年)9月1日、大竹町・小方町・玖波町・栗谷村・友和村の一部の松ヶ原が合併、市制を施工し、大竹市が誕生しました。同市の積極的な工業都市建設計画により企業誘致がされ、化学繊維・パルプ・石油化学工業を中心とする6大企業が沿岸に建ち並び、瀬戸内海臨海工業地帯の一角として目覚しい成長を遂げました。
現在、経済活性化を課題に掲げ、東栄地区に新たな工業用地を創出するとともに、港湾・交通基盤の整備、物流機能の強化、産業集積の促進などを推進しており、広島の西の玄関口として、魅力あふれた都市を目指しています。
大竹の名前の由来
その昔、当地は竹が多いことから「大竹」と呼ばれたとの説があります。また、「大滝」「横竹」と記されていたという説もありあます。
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阿多田島灯台資料館 |
| 住所: |
〒739-0607
広島県大竹市阿多田446 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0827-59-2131 |
| 開館時間: |
9:00〜17:00 |
| 休館日: |
年末年始 |
| 入館料: |
無料 |
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